朝鮮寺刹史料卷末附記
關燈
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朝鮮在來の寺刹は現今概は凋衰不振の狀況に在りシ雖、その多くは新羅、高麗兩朝佛教隆盛時代の創剏に系り、所謂千古の遺蹟なれは、其の起源來曆を審にするは、即ち史蹟を顯彰して、寺刹の體用を明かにするものなり。特に往昔名僧智識のト居に依て、荒涼無人の境域か煙霞密々たる邑裡ご變し、虎豹禽鳥の巢窟か缁素提誨の靈塲ご化したる偉功は、之を千載に傳へて、後進の奮起を促す龜監ごなささるへかちす。
寺刹の境域は所謂山水秀麗の勝區に在りご雖、交通不便なるを以て、夙に聲譽ある古蹟名刹も、觀迹顧訪の士甚た乏しく、為に着名の事蹟も亦隐晦せむごする憾みなき能はす。是れ漢城府及ひ各道に公文を發し、史料采集に着手せし所以なり。
抑も史料采輯の業たる、文書の監識、所在の搜查等に多大の勞費を
要するものなみは容易に成功を望むハきにあうす。然かも現在寺刹九百六十六個寺の來曆を詳にすへき材料を悉く蒐集せむごするは、前途尚ほ遼遠にして實に望洋の歎なきにあうすご雖、既に一部分の采集を了したれは、その全部の采集亦成就するを得へしご信す。今校正の業畢るに際し、聊か本書成立の由來を卷末に錄し、并せて希望を将來に囑すご雲爾。
明治四十四年辛亥暮春
内務部地方局に於て
編者 識す
(參照)
朝鮮寺刹員數表明治四十三年三月調
京畿道一三七
忠清北道 三七
忠清南道 六五
全羅北道 九七
全羅南道 五六
慶尚北道一五六
慶尚南道一〇六
黃海道 五八
江原道 五七
平安南道 四二
平安北道 八四
鹹鏡南道 四六
鹹鏡北道 二五
計九六六
京幾道に寺刹の多きは、高麗朝の都府開城に在りて、首都附近に寺庵の建設せうれたるもの多きに由る。慶尚南北道に寺刹多きは、新羅朝の都府慶州に在りて、首都附近は勿論道内の名山に巨刹の建設せうれたるもの多きに由る。
寺刹の境域は所謂山水秀麗の勝區に在りご雖、交通不便なるを以て、夙に聲譽ある古蹟名刹も、觀迹顧訪の士甚た乏しく、為に着名の事蹟も亦隐晦せむごする憾みなき能はす。是れ漢城府及ひ各道に公文を發し、史料采集に着手せし所以なり。
抑も史料采輯の業たる、文書の監識、所在の搜查等に多大の勞費を
要するものなみは容易に成功を望むハきにあうす。然かも現在寺刹九百六十六個寺の來曆を詳にすへき材料を悉く蒐集せむごするは、前途尚ほ遼遠にして實に望洋の歎なきにあうすご雖、既に一部分の采集を了したれは、その全部の采集亦成就するを得へしご信す。今校正の業畢るに際し、聊か本書成立の由來を卷末に錄し、并せて希望を将來に囑すご雲爾。
明治四十四年辛亥暮春
内務部地方局に於て
編者 識す
(參照)
朝鮮寺刹員數表明治四十三年三月調
京畿道一三七
忠清北道 三七
忠清南道 六五
全羅北道 九七
全羅南道 五六
慶尚北道一五六
慶尚南道一〇六
黃海道 五八
江原道 五七
平安南道 四二
平安北道 八四
鹹鏡南道 四六
鹹鏡北道 二五
計九六六
京幾道に寺刹の多きは、高麗朝の都府開城に在りて、首都附近に寺庵の建設せうれたるもの多きに由る。慶尚南北道に寺刹多きは、新羅朝の都府慶州に在りて、首都附近は勿論道内の名山に巨刹の建設せうれたるもの多きに由る。