(講本)八宗綱要鈔(下)
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、表德局密乘故。
此教意、一切諸法、皆是大日、真如即我身、佛法即吾體。
四重秘釋、重重深妙、三密業用、密密秘奧。
若離此教、永無成佛之路。
求出含生、豈不信行。
真言秘教大概如此。
附說 禅宗(竝)淨土宗 第一章 禅宗 夫諸宗義理、沖邈難測。
今渧一毛、以沾初心日本所傳、自昔已來、共許所翫、唯此八宗。
然八宗外、禅宗及淨土教盛而弘通。
彼禅宗者、佛法玄底、甚深微妙。
本來無一物、本無煩惱。
元是菩提。
達磨西來、不立文字。
直指人心。
見性成佛。
不同餘宗森森萬法、相違法義、重重扣論。
天竺二十八祖、以心傳心。
彼第二十八祖達磨大師、梁世傳之漢地、乃至六祖次第相承。
然五祖之下、南北二宗始分。
六祖南宗之末、漸分五家。
道璿律師、承北宗之禅、傳之日本、又傳教大師、自大唐國、傳於此宗、名佛心宗。
近來名德、亦自宋朝而傳之矣。
日本諸處盛以弘傳。
第二章 淨土宗 又淨土宗教、日域廣行。
凡此教意、具縛凡夫、欣樂淨土、以所修業、往生淨土。
西方淨土、緣深于此土、念佛修行、劣機特為易。
生淨土後、乃至成佛。
泛而言之、一切諸行、廻向淨土、名淨土門、修行萬行、期於此成、名聖道門。
諸教諸宗、皆是聖道、欣求往生、是淨土門。
源出於起信論、繼在龍樹論教。
天親菩薩.菩提留支.昙鸾.道綽.善導.懷感等、乃至日域鹹作解釋、競而弘通。
日本近代已來、此教特盛。
若加此二宗、即成十宗。
然常途所因、其啻八宗而已。
以前所列諸宗次第、非是淺深次第。
唯随言列爾。
列何可得故、且如上列之耳。
人身聖教難受難值。
适得受值。
豈得默止乎。
仍擧管見、以結來緣。
微功不朽、必證菩提矣。
(文永五年戊辰正月二十九日、於豫州圓明寺西谷記之。
予一宗教義尚非所軌。
餘宗教觀一無所知。
唯擧名目聊述管見。
仍錯謬極多、正義全阙。
諸有識見者質之。
) 華嚴宗沙門凝然(生年廿九) (講本)八宗綱要鈔(下終) 八宗綱要鈔解說 一 凝然は号を示觀といつた。
仁治元年(一二四〇)三月六日伊豫國(愛媛[縣-系])越智郡高橋に生れた。
十六才のとき叡山の延曆寺で山門不共の菩薩戒を受けたが、十八のとき東大寺の戒壇院で别受戒を受けて円照の弟子となり、二十才のとき通受戒を受けている。
師の円照は戒壇院を中興し、八宗兼學の名匠であつたので、凝然はこの円照について八宗を學んだが、更にまた律を證玄と淨因に、天台と密教を聖守に、華嚴を宗性に受け、のちまた京都へ出て禅に參じ、淨土を長西に、真言を真空に聽き、八宗はもとより孔老諸子百家の說にも精通した。
かくして二十九才のとき『八宗綱要鈔』二卷を着し、三十七才のとき東大寺舍那殿で華嚴を講じている。
三十八才のとき円照沒するや、そのあとをついで戒壇院に住し、八宗のうち、特に華嚴を弘め律の必要を說き、講経と授戒に遑がなかつた。
後宇多天皇は自から南都に幸し、彼について菩薩戒を受けて、國師の号を賜り、後に彼は宮中に召されて『華嚴五教章』を講じたといわれる。
元亨元年(一三二一)九月五日八十二才で戒壇院に寂し、鹫尾山に葬られた。
凝然は着書極めて多く、華嚴経探玄記洞幽鈔一二〇卷、華嚴賢聖章六〇卷、五教章通路記五二卷、律宗瓊監章六〇卷、梵網戒本疏日珠鈔五〇卷、四分戒本疏賛宗記二〇卷、法華経疏慧光記六〇卷、維摩経疏庵羅記四〇卷、勝鬘経疏詳玄記一八卷、淨土教誨章四〇卷、淨土觀音記二〇卷等、その數一百六十餘部一千餘卷と稱せられる。
現存せるものの大部分には、その奧書に、制作の年時.場所及び動機等が記されてあるので、それらによれば、彼が生國の伊豫以外には餘り南都を離れず、ひたすら着述に專念していたことが窺われる。
二 『八宗綱要鈔』は、その卷末に 文永五年戊辰正月二十九日、於豫州圓明寺西谷記之。
(以下略) 華嚴宗沙門凝然 生年廿九 と記されているので、鎌倉中期の文永五年(一二六八)凝然が二十九才のときの着作であることは明了である。
上下二卷よりなり、鎌倉時代の仏教書にその例の多い問答體の形式で書かれている。
まず序論では、初めに仏教の法門は數多いが、[火*帚]するところは二藏と三藏を出ない旨を明かにし、次いで三國の仏法流傳の曆史を略說して、八宗の分派とその弘伝を述べ、日本伝來の宗派が八宗であることを說いている。
而して本論においては、俱舍.成[宋-木+(大-一+三)].律.法相.三論.天台.華嚴.真言の順序で、八宗の曆史と教義の綱要を簡潔に記述し、終りに附說として禅と淨土との二宗を添えている。
よつて、詳しくは十宗になるわけであるが、凝然が本書を着したのは、法然が淨土宗を開いてより百年に滿たず、榮西が入宋[火*帚]朝してより七十餘年、道元が曹洞宗を開いてより僅か三十餘年に過ぎず、禅と淨土の二宗は在來の八宗に比べてまだその曆史が淺かつたので、附說として簡略な記述にとどめ、本論に說く八宗を标題にとつて『八宗綱要鈔』と名づけたのである。
從つて凝然の當時において、八宗の綱要を述べることは、仏教の全宗派を概說したことになり、附說ではあるが禅淨の二宗も一応加わつているので、爾來、本書は仏教の初學者にとつて必読の書となつたのである。
それが如何に広くまた多くの人に読まれたかは、現在殘つているおびただしい注疏が如実にそれを物語つている。
而も、本書が作られてより七百年後の今日においても、八宗の曆史と教義を要領よく纏めた入門書といえば本書を第一に推すべきであろう。
凝然自身も卷末の奧書に 予一宗教義尚非所軌。
餘宗教觀一無所知。
唯擧名目聊述管見。
仍錯誤極多正義全阙。
諸有識見者質之。
と謙遜して述べているように、仏教研究が長足の進步をとげた今日においては、それぞれの宗學の專門家から見れば、一部に首肯しにくい所說もないではないが、それらは本書の価值を失うほどの瑕瑾ではない。
むしろ日本人の書いた平明な漢文を通して、仏教教理のなにものなるかを理解する上に、格好な入門書として推賞するに足るものである。
三 八宗の順序については、着者が自ら卷末に 以前所列諸宗次第、非是淺深次第。
唯随言列爾。
列何可得故.且如上列之耳。
と記してはいるが、それは決して無秩序に排列したものではなく、小乘より大乘へ、三乘より一乘へ、顯教より密教への次第をとつている點は、弘法大師の十住心判に拠つたものかと考えられる。
しかしながら華嚴宗沙門たる凝然が、華嚴宗の後に真言宗を配していることは、顯密の次第をとれる場合にそれは至極當然のこととはいえ、彼が八宗兼學の學者として各宗を公平に取扱つていることを示すと共に、彼に宗派的偏見が少なかつたことが窺われるのである。
なお、凝然の數ある撰述中、本書と密接な関系をもつものを挙げると『三國仏法伝通緣起』三卷、『内典麈露章』一卷、『律宗綱要』二卷、『淨土源流章』一卷等がある。
これらは本書に論じ盡せなかつた點を補い、或は一層簡略にその要點を纏めた類のものてあるから、并せて參考にせられたい。
終りに本書の刊行本并びに注釈書を挙げると次の如きものがある。
八宗綱要二卷成 [宋-木+(大-一+三)](元龜 二年刊)八宗綱要私記附分科四卷勤息 義城(明治二二年刊) 八宗綱要二卷 (承応 二年刊)釋科傍注八宗綱要二卷町元 吞空(明治二三年刊) 校訂八宗綱要一卷円 解(文政一〇年刊)八宗綱要講述三卷吉谷 覺壽(明治二七年刊) 八宗綱要啟蒙錄五卷楠 潛竜(明治一一年刊)八宗綱要講義一卷織田 得能(明治三四年刊) 八宗綱要鈔講解六卷福田 義導(明治一一年刊)八宗綱要講義一卷境野 黃洋(明治四二年刊) 八宗綱要考證二卷聞 号 述 藤井玄珠補(明治一四年刊) 八宗綱要講義一卷仏教學會 (大正 二年刊) 八宗綱要鈔科本二卷酒井 最正(明治一五年刊)八宗綱要講義一卷和田 竜造(大正 五年刊) 冠注八宗綱要一卷濑辺 惠燈 杉原 春洞(明治二〇年刊) 八宗綱要講話二卷境野 黃洋(大正 五年刊) 冠導八宗綱要四卷杉原 春洞 濑辺 惠燈(明治二一年刊) 八宗綱要問題講述一卷日野 安住(大正 六年刊) 八宗綱要講義二卷柳沢 迎存(明治二一年刊)八宗綱要講義一卷森 達立(大正一二年刊) 标注八宗綱要一卷黑田 真洞(明治二一年刊)八宗綱要講義一卷富井 隆信(大正一三年刊) 啟蒙八宗綱要二卷町元 吞空(明治二一年刊)八宗綱要解說一卷柏原 佑義(昭和 二年刊) 冠注八宗綱要一卷掘江 慶了(明治二二年刊)
此教意、一切諸法、皆是大日、真如即我身、佛法即吾體。
四重秘釋、重重深妙、三密業用、密密秘奧。
若離此教、永無成佛之路。
求出含生、豈不信行。
真言秘教大概如此。
附說 禅宗(竝)淨土宗 第一章 禅宗 夫諸宗義理、沖邈難測。
今渧一毛、以沾初心日本所傳、自昔已來、共許所翫、唯此八宗。
然八宗外、禅宗及淨土教盛而弘通。
彼禅宗者、佛法玄底、甚深微妙。
本來無一物、本無煩惱。
元是菩提。
達磨西來、不立文字。
直指人心。
見性成佛。
不同餘宗森森萬法、相違法義、重重扣論。
天竺二十八祖、以心傳心。
彼第二十八祖達磨大師、梁世傳之漢地、乃至六祖次第相承。
然五祖之下、南北二宗始分。
六祖南宗之末、漸分五家。
道璿律師、承北宗之禅、傳之日本、又傳教大師、自大唐國、傳於此宗、名佛心宗。
近來名德、亦自宋朝而傳之矣。
日本諸處盛以弘傳。
第二章 淨土宗 又淨土宗教、日域廣行。
凡此教意、具縛凡夫、欣樂淨土、以所修業、往生淨土。
西方淨土、緣深于此土、念佛修行、劣機特為易。
生淨土後、乃至成佛。
泛而言之、一切諸行、廻向淨土、名淨土門、修行萬行、期於此成、名聖道門。
諸教諸宗、皆是聖道、欣求往生、是淨土門。
源出於起信論、繼在龍樹論教。
天親菩薩.菩提留支.昙鸾.道綽.善導.懷感等、乃至日域鹹作解釋、競而弘通。
日本近代已來、此教特盛。
若加此二宗、即成十宗。
然常途所因、其啻八宗而已。
以前所列諸宗次第、非是淺深次第。
唯随言列爾。
列何可得故、且如上列之耳。
人身聖教難受難值。
适得受值。
豈得默止乎。
仍擧管見、以結來緣。
微功不朽、必證菩提矣。
(文永五年戊辰正月二十九日、於豫州圓明寺西谷記之。
予一宗教義尚非所軌。
餘宗教觀一無所知。
唯擧名目聊述管見。
仍錯謬極多、正義全阙。
諸有識見者質之。
) 華嚴宗沙門凝然(生年廿九) (講本)八宗綱要鈔(下終) 八宗綱要鈔解說 一 凝然は号を示觀といつた。
仁治元年(一二四〇)三月六日伊豫國(愛媛[縣-系])越智郡高橋に生れた。
十六才のとき叡山の延曆寺で山門不共の菩薩戒を受けたが、十八のとき東大寺の戒壇院で别受戒を受けて円照の弟子となり、二十才のとき通受戒を受けている。
師の円照は戒壇院を中興し、八宗兼學の名匠であつたので、凝然はこの円照について八宗を學んだが、更にまた律を證玄と淨因に、天台と密教を聖守に、華嚴を宗性に受け、のちまた京都へ出て禅に參じ、淨土を長西に、真言を真空に聽き、八宗はもとより孔老諸子百家の說にも精通した。
かくして二十九才のとき『八宗綱要鈔』二卷を着し、三十七才のとき東大寺舍那殿で華嚴を講じている。
三十八才のとき円照沒するや、そのあとをついで戒壇院に住し、八宗のうち、特に華嚴を弘め律の必要を說き、講経と授戒に遑がなかつた。
後宇多天皇は自から南都に幸し、彼について菩薩戒を受けて、國師の号を賜り、後に彼は宮中に召されて『華嚴五教章』を講じたといわれる。
元亨元年(一三二一)九月五日八十二才で戒壇院に寂し、鹫尾山に葬られた。
凝然は着書極めて多く、華嚴経探玄記洞幽鈔一二〇卷、華嚴賢聖章六〇卷、五教章通路記五二卷、律宗瓊監章六〇卷、梵網戒本疏日珠鈔五〇卷、四分戒本疏賛宗記二〇卷、法華経疏慧光記六〇卷、維摩経疏庵羅記四〇卷、勝鬘経疏詳玄記一八卷、淨土教誨章四〇卷、淨土觀音記二〇卷等、その數一百六十餘部一千餘卷と稱せられる。
現存せるものの大部分には、その奧書に、制作の年時.場所及び動機等が記されてあるので、それらによれば、彼が生國の伊豫以外には餘り南都を離れず、ひたすら着述に專念していたことが窺われる。
二 『八宗綱要鈔』は、その卷末に 文永五年戊辰正月二十九日、於豫州圓明寺西谷記之。
(以下略) 華嚴宗沙門凝然 生年廿九 と記されているので、鎌倉中期の文永五年(一二六八)凝然が二十九才のときの着作であることは明了である。
上下二卷よりなり、鎌倉時代の仏教書にその例の多い問答體の形式で書かれている。
まず序論では、初めに仏教の法門は數多いが、[火*帚]するところは二藏と三藏を出ない旨を明かにし、次いで三國の仏法流傳の曆史を略說して、八宗の分派とその弘伝を述べ、日本伝來の宗派が八宗であることを說いている。
而して本論においては、俱舍.成[宋-木+(大-一+三)].律.法相.三論.天台.華嚴.真言の順序で、八宗の曆史と教義の綱要を簡潔に記述し、終りに附說として禅と淨土との二宗を添えている。
よつて、詳しくは十宗になるわけであるが、凝然が本書を着したのは、法然が淨土宗を開いてより百年に滿たず、榮西が入宋[火*帚]朝してより七十餘年、道元が曹洞宗を開いてより僅か三十餘年に過ぎず、禅と淨土の二宗は在來の八宗に比べてまだその曆史が淺かつたので、附說として簡略な記述にとどめ、本論に說く八宗を标題にとつて『八宗綱要鈔』と名づけたのである。
從つて凝然の當時において、八宗の綱要を述べることは、仏教の全宗派を概說したことになり、附說ではあるが禅淨の二宗も一応加わつているので、爾來、本書は仏教の初學者にとつて必読の書となつたのである。
それが如何に広くまた多くの人に読まれたかは、現在殘つているおびただしい注疏が如実にそれを物語つている。
而も、本書が作られてより七百年後の今日においても、八宗の曆史と教義を要領よく纏めた入門書といえば本書を第一に推すべきであろう。
凝然自身も卷末の奧書に 予一宗教義尚非所軌。
餘宗教觀一無所知。
唯擧名目聊述管見。
仍錯誤極多正義全阙。
諸有識見者質之。
と謙遜して述べているように、仏教研究が長足の進步をとげた今日においては、それぞれの宗學の專門家から見れば、一部に首肯しにくい所說もないではないが、それらは本書の価值を失うほどの瑕瑾ではない。
むしろ日本人の書いた平明な漢文を通して、仏教教理のなにものなるかを理解する上に、格好な入門書として推賞するに足るものである。
三 八宗の順序については、着者が自ら卷末に 以前所列諸宗次第、非是淺深次第。
唯随言列爾。
列何可得故.且如上列之耳。
と記してはいるが、それは決して無秩序に排列したものではなく、小乘より大乘へ、三乘より一乘へ、顯教より密教への次第をとつている點は、弘法大師の十住心判に拠つたものかと考えられる。
しかしながら華嚴宗沙門たる凝然が、華嚴宗の後に真言宗を配していることは、顯密の次第をとれる場合にそれは至極當然のこととはいえ、彼が八宗兼學の學者として各宗を公平に取扱つていることを示すと共に、彼に宗派的偏見が少なかつたことが窺われるのである。
なお、凝然の數ある撰述中、本書と密接な関系をもつものを挙げると『三國仏法伝通緣起』三卷、『内典麈露章』一卷、『律宗綱要』二卷、『淨土源流章』一卷等がある。
これらは本書に論じ盡せなかつた點を補い、或は一層簡略にその要點を纏めた類のものてあるから、并せて參考にせられたい。
終りに本書の刊行本并びに注釈書を挙げると次の如きものがある。
八宗綱要二卷成 [宋-木+(大-一+三)](元龜 二年刊)八宗綱要私記附分科四卷勤息 義城(明治二二年刊) 八宗綱要二卷 (承応 二年刊)釋科傍注八宗綱要二卷町元 吞空(明治二三年刊) 校訂八宗綱要一卷円 解(文政一〇年刊)八宗綱要講述三卷吉谷 覺壽(明治二七年刊) 八宗綱要啟蒙錄五卷楠 潛竜(明治一一年刊)八宗綱要講義一卷織田 得能(明治三四年刊) 八宗綱要鈔講解六卷福田 義導(明治一一年刊)八宗綱要講義一卷境野 黃洋(明治四二年刊) 八宗綱要考證二卷聞 号 述 藤井玄珠補(明治一四年刊) 八宗綱要講義一卷仏教學會 (大正 二年刊) 八宗綱要鈔科本二卷酒井 最正(明治一五年刊)八宗綱要講義一卷和田 竜造(大正 五年刊) 冠注八宗綱要一卷濑辺 惠燈 杉原 春洞(明治二〇年刊) 八宗綱要講話二卷境野 黃洋(大正 五年刊) 冠導八宗綱要四卷杉原 春洞 濑辺 惠燈(明治二一年刊) 八宗綱要問題講述一卷日野 安住(大正 六年刊) 八宗綱要講義二卷柳沢 迎存(明治二一年刊)八宗綱要講義一卷森 達立(大正一二年刊) 标注八宗綱要一卷黑田 真洞(明治二一年刊)八宗綱要講義一卷富井 隆信(大正一三年刊) 啟蒙八宗綱要二卷町元 吞空(明治二一年刊)八宗綱要解說一卷柏原 佑義(昭和 二年刊) 冠注八宗綱要一卷掘江 慶了(明治二二年刊)